春はあけぼの きみはすべて

きみのものだから愛おしい

担当とは呼ばない私なりの理由

 

 

 

 

 毎日毎日毎日毎日いい加減にしろというくらいに私は紫耀くんの話ばかりしているし、紫耀くんしか見ていないし、友達には「ええーしのみやって紫耀くんの話しかしないからWESTコン誘っても無駄だと思ってた~」とか言われた始末だが(WESTコンは行きます)、実は私は平野担ではない。最近はそれを説明するのが面倒くさくてあまり否定もしていないけれど、一応自分の中では平野担ではないことになっている。平野担と出会うと「わあ同担ですね!」とか言ってしまうけれど、実は同担ではないのである。

 しかし担当がいないからといって、じゃあDDなのかというとそういうわけでもない。興味のない子にはマジで興味がない。コンサートに行けば基本的にロックオンして微動だにしない野鳥の会民だし、歌番組だって最初の10回くらいは紫耀くん以外一切視界に入っていないし、画像フォルダも概ね紫耀くんで埋まっている。特に嫌いな子がいるとかではないが、「誰でも大好き!」と言える状態でないのは確かである。紫耀くんが大好き!あとはそこそこ好き、くらいのものだ。

 

 「担当」という文化にいまいち馴染めない、という理由で担当を名乗らない人が多くいるのを知っているし、私のTLには割とそういう人が多いのだが、私は別にそれが理由で担当を名乗っていないわけではなかったりする。「担当」を名乗りたくなる気持ちは分かるし、担当制度がこれだけ浸透して、今なお不滅である理由も分かるつもりである。

 あくまでも私の見解だが、アイドルを「担当」と呼ぶのも、自分がお付き合いしている人を「私の彼氏」と呼ぶのも、たぶん心理的には大差ないのではないだろうか。

 自分がお付き合いしている人を「私の彼氏」と呼び、友達だか知り合いだかに話をするとき、少なからず優越感に浸っているということがあるはずだ、と私は考えている。彼は私のものであり、私は彼のものであるという代替不可能性に心酔しているのではないか、というのが喪女大生の見解である。かけがえのない存在を愛すること、かけがえのない存在として愛されることを望まないという人はあまり多くはないのではないだろうか。

 そしてこれが、アイドルを「担当」と呼ぶ理由でもあると私は考える。人は誰かの特別になりたいと同時に、誰かに自分自身の特別を捧げたいと願うのだ。つまり、私の特別な、唯一無二の「担当という枠」を、自分の愛するアイドルに捧げているのである。「あなたを代替したりしない!」という契約を結ぶことで、優越感に浸ることができるのだ。

 だからこそ掛け持ちをするとどこか罪悪感を抱くことがあるし、担降りともなると熱心にブログを書いてしまうのである。それは契約違反だからだ。もちろんこの契約は当人と当人の愛するアイドルとの間のみで交わされた契約であるため、他人が口出しする権利はない。そこを履き違えてはいけない。

 というのが、私のイメージする担当制度の仕組みである。もちろん「そんな気持ちで担当名乗っとらんわ」という人もたくさん存在すると思うのだが、とりあえず狭い視野の中でなんとか私が至った結論がこれである。

 ここまで書くと、「そんな優越感に浸るのは馬鹿らしいから担当制度を導入していない」という風に取られそうだが、そういうわけではない。本当は普通に「平野担です」と言いたい。その方が自己紹介がとっても楽だからというのもあるし、ここまで書いてきた理由で担当としてしまいたい気持ちもある。紫耀くんの特別になりたいという気持ちは微塵もないのだが、紫耀くんを特別としたい気持ちは常に持ち合わせている。だから紫耀くんに落ちた日付を未だに執念深く覚えているのである。

 

 ではなぜ私がそれでも頑なに担当を名乗らないのかというと、「責任を負えない」からである。

 そう、担当制度には責任が付き纏うのだ。だって彼とは契約を交わしてしまっているのだから。

 彼が何か不遇の立場に立たされたなら支えなければならない。担当だから。

 彼が何かをやらかしてしまったら叱ったり励ましたり諭したりしなければならない。担当だから。

 彼の関わる作品がつまらなくても買わなければならない。担当だから。

 彼より魅力的な人が現れたからって突然ほいっと乗り換えてはならない。担当だから。

 自分が勝手に交わしただけで、どこかにサインをしたわけでもない、実体のない契約であるにも関わらず、担当を名乗るだけでこんなにも自分の行動が制約されてしまうのである。

 たぶんこの「責任を負う必要がある」というのも、担当制度の醍醐味であり楽しみだと私は思っている。彼のために、彼のためなら、と自分を犠牲にするのってなんだか特別っぽくて良くないですか。

 ただ私には、この一点がどう考えても重すぎた。私は基本的に自分がいちばん大事だ。自分がいちばんかわいい。自分がいればそれで十分。ビバ自分!みたいなとこある。(その割には自己否定感が強い卑屈人間なのは不思議なところ)

 これは余談であるが、私は未だに忘れられない夢がある。「プリキュアになってくれ」とせがまれる夢である。世界を守るためには君の力が必要なんだ、と妖精にせっつかれるのだ。しかし夢の中の私は、「マジで勘弁してくださいそれだけは無理っす誰か他にもプリキュア候補いるでしょなんで私なんすかほんと無理っすよ他あたってください」とその役目から逃げることに必死だった。目覚めて結構絶望した。私ってものすごい薄情人間なんだなあと。

 話を戻すと、つまり私は担当のために犠牲を払うことはできないのだ。彼が不遇の立場に立たされて露出が減れば飽きて離れてしまうかもしれないし、彼が何かをやらかしたら見ないふりか見捨てるかのどちらかである。作品がつまらなければ買わないし、他にもっと夢中になれるような子が現れたら簡単にそっちに行くだろう。

 私は責任を負ってまで、紫耀くんを特別にはしたくないのである。面倒だから。担当を名乗らない理由は、面倒だからだ。

 

 アイドルを追いかけるのはただの趣味で、日々の疲れを癒すためだけにアイドルを消費している、というのが私のスタンスである。担当を名乗ることは、このスタンスに反してしまうことなのだ。

 だから私は「平野紫耀のことが好きな人」でしかない。一年ちょっと前、「紫耀くんが好き」と思った。半年前も、「やっぱり紫耀くんが好きだなあ」と思った。ひと月前も「紫耀くんが世界でいちばんかわいい」と考えていたし、一週間前も「紫耀くんは世間に見つかって然るべき逸材だあ♡」とか思っていた。昨日も紫耀くんが好きだったし、今日もやっぱり紫耀くんが好きで、たぶん明日も紫耀くんが好きだ。一週間後も恐らく好きだと思う。ひと月後はどうだろうか。半年後はさすがに怪しくなってくる。一年後は何をしているだろうか。

 結局、毎日毎日毎日毎日、その日いちばん好きな人が「平野紫耀」というだけなのだ。そういう日々が、一年以上続いているというだけの、ただのしがないおたくが私なのである。